魔界学園に関する分析、を目指そうとした文章の残骸

まず、学園もの(一応)であるということ。
学園、学校というのは学生である身には、極めて近しい日常であり、
かって学生であった身にとっては懐かしい世界と捉えられる。
(忌むべき過去や唾棄すべき日常という人もいるだろうが、あくまで一般大多数には、だ)
だからこそ学園ものは根強いジャンルとして今も昔も存在しているわけだ。当然、そのメリットは受けている。
学園ものの延長になるが、硬派もの、もしくは番長ものと言われるジャンルでもある。これは掲載紙少年チャンピオンの風潮として当時の追い風のジャンルでもあった。
学園番長モノの良さは、現代において時代劇のような構図を描くことができるということだ。
戦国武将の如く日本制覇を目指したり、武術の腕を磨くのを目標にするような普通の世界に相反するようなキャラクターたちが存在できる。より身近なファンタジーである。
ちなみに日本制覇を目指せるのは現代を舞台にした作品とは、番長・ヤンキーの類の作品とヤクザもの、そしてSFだけであろう。

また、この作品は異世界ファンタジーでもある。
ファンタジーは、日常からの遊離の快楽を与えるという一面を持っており、きわめて平易な感覚を与える学園生活という日常と常に対比されることにより、
異常さ・奇妙さを際立たせることができる。

別な一面、と言っても番長ものとは限りなくダブっているが超能力バトル・武術ものというジャンル分けも可能であろう。
血沸き肉踊る闘いというものは、人間に闘争本能が欠片でも残っている限り支持されるであろう。
そして『魔界学園』においては、ファンタジー(もしくはSF、要は現実を超えたものを描こうとする作品)としての体裁を持っている以上、それをエスカレートさせることに限界はない。
硬派モノにおいては、たまに日常を超えた世界に突入してしまうものが存在するように
暴力が支配する世界感は、実は日常からの遊離形態の一つであり、
身近な非日常を段階として踏むことにより、読者へのリアリティの喪失感を薄めることが演出としては可能になる。

以上のようなジャンル・ミックスによる特性と親和性のある融合による特性に加え、菊地秀行自身の未だ見たことの無いモノを描く才能により、エンターテインメントとして優れた作品として存在する。
また同時に菊地秀行の持つ叙情的な描写によるアクセントを持つことで消費される作品となることを拒んでいると言えるだろう。