徒然

暗黒館の殺人』(綾辻 行人著)をやっと読み出した。
中原中也がどうとか唐突に書いたのはそういうわけである。
(中也君と呼ばれる人物が出てくるので)

まだ読んでいる最中、ということはとりあえず日常が満たされた状態にあるということだ。
トーキョーN◎VAサプリメント『STRAY LIGHT』も午前中仕事を休んで買いに行ってしまったし。

まあ、外部にエンターテインメントを求めなければならないというのは、個体としての不完全さの表れであるのだが。
完全体は、エンターテインメントは外部から供給される必要がない。
必要であれば内部生産される。
妄想ともいうが。

ところで近頃ミクロマンを購入し、スタックファスとかまで集めちゃったりしたらどうしよう、などという心配を自分に対してしているわけです。
可動フィギュアっていいなぁ、と。

でも、人形も妄想発生の為の媒体であるのは疑いえませんが。
可動人形は、関節が動くことで色々なポージングをさせられるわけですが、そこで妄想というか物語を使用者は想定するわけです。
彫像であれば、作成者の提供する物語に縛られ(裏読みはできるけれど)るのに対し、
自己が介入できるのがポイントである、と。
デジタル画像により、その妄想・物語を自己のみでなく他者にも開示できる現在、こう広がっていく趣味になったりしないかな、などと考えたのですが、そもそも妄想作成機であるのであれば、実体は必要なくなってきたりする方向へ駆け抜けて行ってしまう可能性に思い至ったので(3DのCGモデルとか、用語はなんというものなのか知りませんが)、実と虚の間にどれだけ重みを置くかが進化の分れ目だ、などと主張してみたくなる。

人形自体が人間を模している以上、そこに人格などの付随する情報を想定してしまう為の妄想機なのに、人形としての歴史などという多重な構造すら持ち得てしまうのが
人形に対する不気味さに通じるんじゃないだろうか?

……俺、今ある意味ヒマみたい……。