反省、それは大事なことだが免罪符にはならないぞ、と。

自分語りは、ウザイ。
自分でもやっておきながらなんだが、他人のを見ると気にかかる。
(無論WEB上の話)
知り合いであれば、大概気にかからない。そこに接続される情報に興味があるからである。
これが他人の場合は単純に見ない、という対処が有効であるのだが、
気になるのは書評とか感想とかそういうものの場合だ。
すばやく自分の脳内から、消去して関わらずに過ごすのが一番と思う派閥を私は選んでいる。
ディスコミュニケーションの推進という副作用があるものの、反論のコミュニケートによる不快感の拡大再生産を起こす可能性を考えると普通は無難な選択だ。
この方法は短期的にに見ればあきらかにベストなのだが、自己選択の情報境界がぬるいと
自己の中に葛藤を残すことになる。

簡単に言おう。RPGのゲーム設定の話。投稿採用者が

投稿設定の採用というものは、非常に攻撃力が高い。
オフィシャルとして投稿が採用された場合、これを自分の中の共同幻想に取り込むことには問題はない。
しかし、投稿者の妄想をオフィシャル側採用者の妄想が完全に一致することは、ありえない。
しかし、投稿者、採用者ともに自分の妄想こそが真実であって彼らの中には問題は無い。
だが、観察者であるところの通常のユーザーである身にとっては、どちらの立場を取って見ても違和感が残る。通常は、自分の妄想とオフィシャルとの差異に対応できればいいだけなのだが、三つの妄想の整合化・整理を行わなければならないからである。

結論からすると、自分をしっかり持て! というところに帰着するのだが、
その方法論も失敗すると、人の意見を聞かない鉄壁のシールドを持つ電波な人が出来上がる罠。