少年よ神話になれ

碇シンジ育成計画』を読んでいる。
というか一気に5巻まで来た。
霧島マナの顔見せまでというところである。

TV最終回の学園エヴァをベースにして、
原作となるゲーム版の『碇シンジ育成計画』や同じくゲームの『鋼鉄のガールフレンド』とかも振り掛けて、という感じに見える。
ゲーム、どっちもやっていないので、その表現が正確かどうかは自分にはわからないが。
それどころか、いわゆる学園エヴァってやつについても、
私の記憶には、記号化された加えた食パンと通学途中に頭をぶつけるイベント発生といったものしか残っていない状態だったのである。
その為、アスカが幼馴染、ミサトが先生という設定すら意識に上がらず、
漫画オリジナルで加えたのかと思ってしまったぐらいです。
まあ、ありがちな設定だから当然一致するわけなのですがね。むしろ置換によって生成される設定にありがち感がないなんてことになるようだと、むしろ問題だし。

で、ラブコメである。
謎の転校生の女の子=レイと幼馴染の女の子=アスカに対して
一見頼りなく見えるけれど、やるときはやる(もしくはやればできる)男の子=シンジって、これほどストレートなのは近年そう無いんではないか?
これを、ある意味かくあれ、という風に受け取る人も多いだろう。
エヴァンゲリオンのパーツとしての設定(特にキャラクターに関するもの)を掲示された場合、この漫画のような内容を無意識には想定するのが一般的な受け取り手なのではないか、と思う。
それに対して、ズレを持って表現されたことによってアニメは視聴者にインパクトを与えた、というのが魅力の一面なんじゃないだろうか。
それに対して逆転して、読者がおそらく半ば自覚的に望んでいた展開をこの漫画では提供している。

たぶん、現在の受け取り手(読者・視聴者)たちは、多面性を求めている。もしくは自分たちの意思の直接的な介入を求めている。ような気がする。
それはヒロインを自分の意思で選択できるギャルゲーやマルチエンディングを迎えるRPGの存在などに示されていたりするんじゃないだろうか?

えーと。『ひぐらし』とか?

まあ、物語を構成するパーツとして、キャラクターや世界設定などを受け取る、ということを望む場合、有り得た展開を公示されることによってパーツとしての完成度を上げるという欲求にこの漫画は応えてくれちゃったりもしてるんじゃないか。きっと。

ただ、これも有りえたかも知れない世界として表記されるが故に
逆にわずかにバランスが崩れただけで、それが壊れて行く不安も多分潜んませて読者は読んだりもする。
夢は見るけど、所詮現実ではないとの感覚があるわけですよ。

超光戦士シャンゼリオン』の最終回や、『かってに改蔵』の最終回でそれまでの楽園をひっくり返されるような、不安感を持っているから
あらかじめ背後にあるものを覚悟して読む、ということになるから
純化されたラブコメを読めるのだ。

逆に言うと、もう素直な気持ちでベタベタなものは、読めないのである。
提示されなくても、裏を考えずには居られない。
そんな難儀な性を背負った者たちへ送るラブコメ

まあ、もっと単純に劇場版にしろTV版にしろ、強烈に引っかきまわされた人々の求める癒し、って単純な回答なのかもしれないけど。